無肢をくるむ

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写真

 

今日東京都写真美術館で行われている「深瀬昌久 1961-1991 レトロスペクティブ」に行ってきたのだが、生涯で最も心に焼き付いた展示だったので記録に残そうと思う。

 

私は受験一年前に写真表現を追求したいと考えて大学を選んだ。そのため、3年次に写真系のゼミに所属する以前から、写真を中心とした展示活動を行っていた。「写真をやる」と決める前は撮影行為そのものを楽しんでいたように思うが、そうと決意してからは何かに操られるように重い足取りでカメラを抱えるようになった。

撮って、並べて、撮って、並べて、それを繰り返していくと、意味があるのは組み合わせること・編むことにあって、これそのものにはないのではないか。自分は、写真を撮れていないのではないか。と不安になった。

撮影の数をこなしていくとそれなりの写真が撮れるようになる。しかしそれが、逆に人質に取られているようであった。私は技法を磨きたかったのではなく、「写真とは何であるか」について考え表現したかったのに、いつの間にか目的がすげ替わっているような気がしてならない。

次第に自分が何をしているのか分からなくなっていった。カメラがあり、それを抱える手があり、それを支える体がある。けれども、撮影を始めると心が消えてしまう。「逃げ」であれば捕まえることも出来るが、失くなってしまってはどうしようもない。木偶の坊だが開演してしまえば踊らざるを得ない、そんな心境がずっと続いた。

大学1年の頃、別の学科の教授から「君は写真を暴力に使っているね」と言われた時嬉しかった。あの頃は人を殺す覚悟で衝動的に写真を撮っていたから。感情のほとばしりとは恐ろしい。その勢いが失われると、それがとんでもなく価値のあるもののように思えて仕方なくなる。

次第に写真と距離ができていった。それは私が写真から遠ざかったという意味ではなく、撮影しても写真に拒否されてしまうという意味である。フレーム外で考えていること(意図的に思考していることだけでなく、思考と思考の狭間・無意識的なアイデンティティ含め)とフレームが合致しないのだ。

ゼミの先生にある時言った、「写真を好きな時があったかわからなくなりました。楽しさを感じることはほとんどありません」。先生は「それは苦しいね」と腕を組み、何かを考え込んでいた。

 

卒業してしばらくカメラに触れることはなかった。

 

 

深瀬昌久の作品をきちんと観たのは今回がはじめて。あまりパーソナル的なことも知らない。

 

最初は恋人や家族など身の回りの人を撮影しており、時間経過によって恋人だった人が妻に、その人をただひたすら撮る、ということを行っていた。

しかし、ある時から明らかに意味合いが異なる作風に変化する。それもそのはずで、撮ることに重きを置き始めたら関係が壊れていき、離別してしまったのだと言う。それまであんなにも枠を超えて放っていた主体が、急に感じられなくなる。

その後何かに追いすがるかのように鴉の写真が大量に出現する。心に穴が空いてしまったのだ、とんでもない傷を負ったのだと誰もがわかるくらい、肉を剥いでそこに置いたかのような痛ましさがあった。本人の心は弱々しい灯火だったかもしれないが、それと反して屈強な肉々しさ、これ以上ないほど「生」を感じられる作家性のある作品になっていて、別人の展示を観ているかのようだった。

次に出現したのは猫。所謂一般的な可愛らしい写真とはかけ離れたものが一枚ずつ飾られていた。一緒に鑑賞した友達は「妻を撮る目でこの猫のことを撮るようになったんだ」と言っていて、私はそんな印象は抱かなかったけど、庇護や保護、家族に向ける眼差しとはまた違ったそれに血を滾らせた。猫は可愛い。美しい。そんなものは生ぬるい、とでも言うように生き物としての猫の写真が続いていく。長い舌、トゲトゲとした表面、鋭利な毛並み。殺されてしまう、と思いながらそれらを眺めた。警戒心を働かせる暇もなく、体のコントロールを奪われるような作品たちだった。

見覚えのある景色が写っている。これまで根城を築いてきた場所の軌跡だ。自分にも近付きたくない場所はある。それがそうでなくなる日も想像できない。実に自罰的な行為だと思った。さっき知ったばかりの場所が、さっきまで何ともなかったところが、苦痛を与えてくる。この人の目を通して、私に一時的な帰属意識が芽生えた。とても居られない。この時ばかりはカメラは心強い「他人の目」だったのだろうか。シャッター音は心臓を刺すビートになってはいなかったのだろうか。縁(ふち)がなく、浴びるだけで終わってしまった。

それらを経た彼は、今度は自分が一部写りこむ写真を撮るようになる。海外の道中、電車の中から、街から、あまり代わり映えのしない表情を覗かせて。キャプションには「被写体になった人々が次々といなくなっていき、彼は自分を撮ることに…」と書かれていた。正直このあたりから内省が暴走して、観たものの記憶が確かか自信が無い。

最後は「風呂の中で口内に水を含ませブクブクしている様子の自撮り」もしくは「体の一部を切り取った写真」が壁一面に貼られていた。

人々が離れていっても、この人はカメラを離さなかったのだ。これをなくしては生きていけなかったのだ。と思ったら、泣けて泣けてしょうがなかった。私写真パートの展示は何度引っ込めても涙が浮かんできて、頭も熱を持つ程度に思考がとんでもなく働いてしまう。

 

深瀬さんの姿は自分がなりたかったもので、それでもならないものだった。写真でなければだめなのだ、これは写真以外では表現し得ない。そういうものが撮りたかった。説得力のある写真、ではなく写真を「説得力そのもの」にしたかった。結局それが何であるか今の今ままで分からないけれども。

写真に撮らされている時は苦しい。どうかどうかそうじゃない時が来ますように、と願いながらも、舵が手元に戻っても本当に苦しさがなくなることなんてあったのだろうかと、そんな返礼を施してくれるような優しさなんて写真には1ミリ足りともないのではないかと、まるで沸騰したやかんから中身が飛び出ててくるのように、認知すら出来ずに通過していく感情をどうとも出来ないまま見送った。それでもこの人は、カメラを握っていてくれたのだと。

苦しさから完全に逃れることはなくとも、それいっぱいに身体が占められるような時期は通過したのではないか、と想像できる写真を観た時、心の底からよかったと崩れ落ちそうになった。同時にあの撮影の時そういえば楽しかった、という記憶がゆったり脳に運ばれてきたから。私にもあったのだ。

 

これはただの日記なので、何か劇的な結末があるわけではない。大きな変化もないだろう。それでも、心を返却してくれたような今日を、何度忘れてしまっても思い出せるようにここに書き留めておく。